イギリス留学 ざっくり日記

大学院で社会開発を学んだ話

力関係について

今回は大学院で学んだ力関係を認識する大切さについて書きます。

私はなぜ自分がこんなにも開発援助に興味を持っているのかこれまで疑問に思っていました。なぜなら私は消極的な方で、ニュースなどで報道される国内外の社会課題で関心があれば自分で調べたりするものの、それについて何か積極的に行動したりすることはなかったからです。

一つ分かっていたのは、私は開発援助によって人々の選択肢(可能性)を増える、ということにとても魅力を感じているということでした。例えば、教育を受ける機会がない子どもの住む町に、ある援助によって学校が作られ先生が派遣されて・・・といったことです。ただ、ある行動(援助)が「選択肢の提供」となるか「押しつけ」となるかはどこで判断すべきか、が整理出来ていませんでした。

でもやっと!大学院で学んで、自分の興味の源泉や援助の効果が「力関係」に関係していることが分かったのでした。つまりはある行動を行う時、そこに力の差があることを考慮しなければ、押しつけになる危険性があるということです。そしてその関係性に私は興味を持っていたのでした。

英語論文ではよく’ asymmetrical power relations’(不釣り合い/非対象 な関係)という言葉で表現されますが、ある人々の間、またはグループの間にはほとんどの場合、力の不均衡があります。対等という関係は理想的ですが、なかなか難しい。そのため、自分が力関係のどの部分にいるのかに自覚的になることは重要だと学びました。

そこで思い出したのが、昔読んでとても感銘を受けた小田実さんの「生きる術としての哲学」のに書いてあった「される側」と「する側」の以下説明です。*1 少し内容を引用します。

「いま世界は混沌としていて、これからどうなるか分からない。ということはわれわれの世界は『現場』だということ」
「『現場』は波風が立つ場所」であり、「『現場』では自分で判断しなければならない。自分で基準をつくって決めなければならない」

そしてこの「現場」の判断の条件として小田さんは「される側から考える」必要性を説かれています。

攻撃する側/される側、支配する側/される側・・・様々な「する/される」側で世界は成り立っていますが、私が開発援助に興味を持ち始めた2000年代は「援助する側」のメッセージがとても強い時代でした。今もその傾向はあるかもしれませんが、最近は「援助される側」の意見が伝わる機会も多くなってきたと感じています。この考えに触れて、私が開発援助に興味を持った大きな要因は、援助される側の意見を聞きたかったからだと気づきました。

私は可能なら「する側」「される側」どちらの意見も知りたいと思っています。ただ弱い立場になることの多い「される側」から考えることは、小田さんが仰るように現場で大切なことだと考えています。私は開発援助の目標として掲げられる今ある課題を解決しより良い状態を模索する、という前向きなメッセージに強く惹かれるからこそ、詳しく知りたくなったのかなとも思います。

私は援助する側を少ししか経験していないのですが、自分が援助者として(自動的に)持ってしまう「力」に自覚的にならなければ、と協力隊時代の反省も交えて思っています。

そして力関係を認識することは、自分が「される側」になった時も役に立つとも感じています。善意から行われた他者の親切を重荷に感じてしまう、又は、一見対等に思える関係なのに断りづらいなど、そんな時は見えない非対称の関係性に縛られている可能性があります。それを認識すれば、より自分が生きやすい状況にするための方法、例えば相手との関係性を変えるもしくは距離を置く、という判断が出来ると分かったのでした。

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*1:「生きる術としての哲学」、小田 実 著、 飯田 裕康 ・高草木 光一 編https://www.iwanami.co.jp/book/b260969.html 

Critical thinking, unpackについて

今回は’Critical thinking’について書きます。
Criticalに物事を考えよ、というのは授業が始まってからよく先生に言われていました。日本語では「批判的思考」と訳されることが多いですが、ジーニアス英和大辞典では「批評的思考」と訳され「十分な調査・知識に基づく、よく練られた知的批評」という意味が載っていました。個人的にはこの「批評」という考えがしっくりきます。
’Critical thinking’に関して学生として何に気を付けるべきか書いている書籍や記事はたくさんあるのですが、これまでで一番分かりやすいと感じたのがLeeds大学のホームページに載っていた説明です。そこでは’Critical thinking’とは’always questioning the information, ideas and arguments you find in your studies’と説明されています。*1 私はこれを、情報などを鵜呑みにせず常に疑う姿勢を持つこと、と解釈しました。そして’Just criticizing ideas’や’Not accepting what you read’ではない、との追記もあり、これは英語ネイティブでも混同している人がいたような気がしました。自分が受け入れられない考えをひたすら批判する人もいたからです。

上記の通りCritical thinkingの必要性は分かるものの、毎週のように批評的な記事を批評しながら授業で学んでいると暗い気持ちになり、コースメイトに「開発援助の世界は欺瞞が多いことが分かったし、もう開発を学ぶのなんてやめて、日本に帰って違う仕事に就こうかな」と半分本気で言ったりしていました。

その時コースメイトも苦笑いしつつフォローとして言ってくれたし、私も理解しているのですが、うまくいっていない部分を分析することでより良い方法を模索しているんですよね。 また、開発にかかわる機関や団体は世界中にあるので、援助を受ける人に良い効果を与えるものもあれば逆効果のものもある、というのは分かっています。

ただ、何となく感じていた辻褄があっていないことを毎週毎週読むのはつらく、また「批判してるだけかよ」という反発が芽生えてきました。特に、代わりの案も出さずに既存の方法を「上手に」「細かく」批判してるように思える記事を読むと「完璧なものなんてないし、批判するだけなら誰でも出来るでしょうが。その素晴らしい頭脳を机上ではなく実践に使ったら?」とか余計なことを思っていました。

まあでもこのまま’Critical thinking’に腑に落ちてないと勉強にも生かせないし、と思って思い出したのが先生のよく言う 「問題をunpackするのが大切」との考え方でした。英英辞書でunpackの意味は‘Analyse (something) into its component elements’と載っていました。*2 

「構成要素に(細かく)分解するのかーなるほど!」と思いついたのが、昔教えてもらったコンピューターの修理の仕方みたいなものかなーという拡大解釈でした。
修理する時にコンピューターの中を開けるとこんな感じで部品が配置されています。

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そしてコンピューターがうまく動かないときに、この一つ一つの部品を新しい部品と交換しながら何が悪いのかを調べてたのでした。部品を分解している時は壊れるんじゃないかとどきどきするのですが、ハードディスク、CPU・・・と順に調べていくと、本当に何の部品が悪いか分かって、その部品を交換したら嘘みたいにスムーズに起動出来るのでびっくりすることがありました。

これを元に考えると、問題を要素毎に分解して、この要素は上手く動いてないと指摘することは重要だ!とやっと腑に落ちました。 批評の後この要素をこう代えてみたら?という代わりの案(政策提言)を行う人もいれば、既存の要素をほぼ全て否定して「これから住民による住民のための行動が求められる、民よ、立ち上がれ!」みたいに終わる記事もまれにありました。(でも大抵、批判するのみで代替案を提示していない論文は現実的でない「ユートピア的思考」と批判されます。)

時に感情的にならず理論的に批評するのが難しい時もありましたが、授業で練習するうちに日常生活でも今までより情報を冷静に分析出来るようになったと感じています。それまではネガティブなニュースやSNSのコメントへ感情的に反応していたのですが、今はまずは情報を分解して考えるようになりました。まだ練習中ですが、これからも’Critical thinking’をうまく活用したいと思います。

*1:以下Leeds大学のページ
https://library.leeds.ac.uk/info/1401/academic_skills/105/critical_thinking 

*2:オクスフォード英英辞典

「本当」の参加型ワークショップとは② 参加者編

前回の記事(ファシリテーター編)に続き、ワークショップの参加者から学んだことを書きます。

私はこのワークショップ参加者の中では、自分が英語力も開発に関する知識も他の人より劣っていると考えていたため、このワークショップはどちらかというと弱い立場の人の気持ちを体験している気がしていました。楽しいのに毎回緊張していて、不思議な感覚でした。
他の参加者の対応で特に印象的だったのが、何かを決定するときにどう力関係を緩和するかを学んだ回です。通常グループで意見を出し合い何かを決める時には、紙を囲んでペンを使いながら話し合う、という方法がとられます。ただこれだとペンを握る人が紙に何を書くかを決めるため「力」を独占してしまい、決定にその人の意見が多く反映される傾向があります。

そこで、力の独占を避けるため、意見を出し合い決定する際には全員が投票するという方法が提示されました。その方法とは、豆などを使ってまずは全員が意見を出し合って、その豆を各々動かしながらお互いの意見を調整していくというものでした。この方法であれば一人がペン(力)で意見を反映させる方法とは違い、みんなが同じ程度の力(豆)を使って意見を交換出来ます。

では決定のプロセスを体験してみよう、とそれぞれ4人組になって自分たちで決めたテーマで優先順位を決める、というグループワークをしました。テーマは何でも良かったので、私たちのグループは国際NGOの名前を4つ挙げ、その活動の順位を決めることにしました。そのワークはとてもしっかりした男性が、ずっとペンで自分と私たちの意見を紙に書きながらテキパキと仕切ってくれました。私は「あれ?ペンではなく豆を使うワークなのでは?」と周りを見渡すと、みんなが豆を動かしながら話をしていました。しかし私のグループはどんどん3人によって議論が進み、一人がどんどんペンで内容を書き込んでいきます。

もちろん3人は優しい人たちだったので、この時私が何か発言をしたら聞いてくれたと思います。ただ私は3人が私(ほぼ参加していない人)に気づくかな?と少し意地悪な実験をしてみることにして、笑顔で観察していました。この後、特に私を気にすることなく順位表は完成され、その仕切り役の彼は一度もペンを手放しませんでした。

ファシリテーターがじっとその様子を見て、「このグループは豆を使わなかったんだね」と一言言って去っていきました。その後の雑談で、ずっと仕切っていた彼は有名な国際NGOに勤めていて何回も参加型ワークショップのファシリテーターを行ったと言っていて、「さぞ、自分が一番参加するワークショップだっただろうな」とつい思ってしまいました。

この場合は同じ生徒という立場で積極的に参加しなかった私に非がありますが、多様な立場の人と行う場合には語学力や知識不足でついていけない人、性格や社会的な立場によって「参加出来ない」人もいると考えています。このワークショップで一番の肝は「力の差を緩和し参加者全員に参加してもらう仕組みを学ぶ」ことだと思っていたので、それを全く気にしていないように見える人がいたのには少しびっくりしましたし、人によって重視するところは違うのだな、と感じました。

一方で、ほとんどの参加者は自分の力を意識していたと思います。すごいな、と思った方の一人は30代後半くらいで大学院に通いながら自分でNGOを運営もされていました。でも彼女はディスカッションの時には、他の参加者の話を聞いて必要な時はフォローするなどとても控えめに対応していました。そしてファシリテーターがたまに彼女に「君は同じ経験をしていると思うけど、少し紹介してくれるかな?」と話をふると、ものすごく内容の深い経験を共有してくれます。彼女がディスカッションで話そうと思えば他の参加者よりも内容の濃い話が常に出来たと思うのですが、まずは他の人が話しやすい雰囲気を自分から作っていた穏やかな姿に学ぶものがありました。

他にも聞き返したらゆっくり分かりやすい説明に変えてくれた英語ネイティブの人、説明に詰まる人がいたらフォローする人、と多くの参加者が参加しやすい場づくりに貢献していました。

自分が大きな力に対峙したとき人によって対応は違いますが、私はファシリテーターやその参加者のようになるべく力関係を自覚したいと思っています。大学院の授業でも自分の力のバランスをとる先生とあまり気にしない先生がいました。ただ、「評価者」としての先生の力は生徒にはとても大きく感じられるので、授業で質問した時の対応があまりに冷たければ、その生徒は質問をしなくなるかもしれません。私は力関係を意識してバランスをとろうとする先生を尊敬していたので、自分も真似出来るように観察するようにしていました。修了後もその習慣は変わらず、こんなに人間は力関係に影響されるんだなと、とても興味深い気持ちになることがあります。

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「本当」の参加型ワークショップとは①ファシリテーター編

今回はParticipatory Workshop(参加型ワークショップ)に参加して得た気付きについて書きます。

大学院で授業とは別に、自由参加の週末1日のワークショップが各学期に2~3回開催されていました。ファシリテーターは世界的に有名な、参加型開発についてたくさんの著書を書いていらっしゃる方です。最初はせっかくの機会だし、という気持ちで参加しましたが、本当の「参加型」とはこういうことかと印象的でした。なんといっても彼のワークショップの進め方の随所に、私たちが参加しやすい細かな工夫がなされているのにとても驚いたのでした。

私自身参加型開発について知識はあまりなかったのですが、大学院でこのワークショップに参加して、改めて授業で学んでいた現場の’asymmetry power relations’(非対称な関係)に個人としてどう対応すべきかの指針を得た気がしています。ファシリテーターと参加者の両者からの気づきを得ましたが、まずファシリテーターからの学びを書きます。

■内容・進め方
開発に関するテーマが1つ挙げられ、そのテーマについてディスカッションなどを通じて1日で学ぶ形式でした。まず朝9時半ごろに集まって、内容の簡単な説明があります。その後はテーマに関する質問に対し、ペア又はグループで話し合い(内容に応じて数分~30分以上)、それを口頭又は模造紙などに書いて全体に共有、それに対しファシリテーターが解説する・・・ということを数回繰り返します。お昼休憩を挟んだ後、午後はまず参加者の体験の共有から始まります。これはテーマに関連した経験を持つ4人が立候補し、各15分くらいで発表。それを他の参加者が聞いて回るというものです。その後は質問~解説の流れを数回行い、最後はペアで今日学んだことを伝え合います。

■印象的だったこと
私は日本で参加型ワークショップについて学ぶ数日間の講座に参加したことがありましたが、ぶ厚い資料に書き込みながらほぼ座学でした。この講座の目的は細かな手法を勉強することだったと考えています。ただこの大学院でのワークショップでは、将来ファシリテーターとなる人が「参加者」の立場を体感することも目的とされているような気がしました。参加者はほぼずっと聞く、話す(けっこう移動する)、を積極的に行わなくてはならず忙しかったですが、どういう説明や進行であれば参加しやすいかなどについて得られるものが多くありました。

以下が特に印象的だったことです。
ファシリテーターは解説後にほぼ毎回、何か質問があるかを参加者に尋ねていました。そしてどんな質問にも朗らかに答えますし、失礼に思える質問(その前に説明されたことを尋ねたり、細かな質問を何回も聞いたり)についてもユーモラスにかわしながら答えたりします。そのため常に質問者への敬意が保たれていていました。特に他のワークショップやセミナーで、有名な人ほど参加者に高圧的に対応したり質問者の無知を暗に責めたりする姿を見たことがあったので、彼の一貫した態度は素晴らしいと感じました。

ファシリテーターは参加者の様子を常に確認していました。高齢な方なのですがディスカッション中の様子を聞いて回り、必要に応じてコメントされます。このため参加者もファシリテーターを身近に感じられやる気が出ますし、質問しやすくなっていたと思いました。

ファシリテーターは常に分かりやすい言葉で、ゆっくりはっきり説明していました。その日の質問は模造紙に書いてあり、共有もそれに書いて行われるので目でも確認出来ます。授業で英語ネイティブの先生が概要だけ書いたスライドをもとに早口で説明するのを必死にメモしていた私にとっては本当に有難い配慮でした。全部書き取らなくても、後でその模造紙をスマホで撮影し復習出来るからです。

ファシリテーターを務めていた方は開発の世界でものすごく有名で、元教授、白人の中流階級出身、年上、英語ネイティブ・・・とあらゆる面で参加者の上位になれる、つまりは力を持っている人です。でも生徒よりも大きな力を持つ彼はそれが私たちの参加を妨げないよう、様々に気を配っていました。気遣いはいつもさりげなく彼自身気さくな方だったので、ワークショップは終始和やかに進んでおり、私は心底感動しました。

とても人気がある方なので、生徒が本へのサインや写真撮影をワークショップ後に頼んだりするのですが、快く対応されていました。もちろん必要な時、例えば、参加者が午後に帰ってとても少なくなったり、関係のない質問を繰り返したりする時には少し厳しい発言もありました。ただそれは秩序を保つために必要なことだと感じました。

このワークショップを受けて、過去仕事で自分が行ったワークショップを思い返し、私はこんなに参加者へ気を配れていなかったなと反省しきりでした。そしてこれまで自分の意見を押し付けるファシリテーターがいたりして正直ワークショップというものにネガティブな感情をいだくこともあったのですが、彼を見て「本物はこれだ」と衝撃を受けました。そしてこれから自分がその場で特に「力」を持っていると感じる時、彼を思い出しその関係性を調整したい、と強く思いました。

下の写真はワークショップの中で’How we sabotage in everyday life?’という質問について、グループで話し合った内容を全体に共有したものです。日常生活で自分たちが行っている、相手の言動を妨げる行動が意外にあること(相手に質問せずに推測するというものから、相手が話しているときに時計を見るというものまで)が分かり面白かったです。
次の記事では参加者からの学びを書きます。f:id:natsuko87:20200815164739j:plain

「教育」の目的

今回は春学期に受講した「教育」の授業で学んだことを紹介します。
主に教育と争いの関係を様々な角度から勉強したのですが、特にこの授業を通して教育の価値や効果を無条件に肯定しがちな自分に気づくことが出来たのはとても貴重でした。そして心に残ったのが教育は必ずしも良い効果をもたらすものではない、という考え方です。
この学びが印象的だったのは、進学前の私が開発援助の文脈で教育をどうとらえるべきか分からなくなっていたからだと思います。何をどう教えるのが良いかは価値観に拠るけれど、自分(日本の文化を強く反映)と援助される人々の価値観や文化が違う中で、お互いの価値観をどの程度取り入れるべきか判断するのは難しいと感じていました。

授業で学んだ教育のカテゴリー
この授業の最初に先生から、教育の目的は関係者毎に異なるとして以下7つのカテゴリーが提示されました。
1. 基本的人権
2. 人的資本 *1
3. 解放
4. 融和
5. 教化
6. 変化
7. 社会的団結
これを見て、私は教育の意義を「1.基本的人権」、「2.人的資本」として捉える傾向にあると気づきました。そして教育が「5.教化」にもなり得るということは協力隊時代に実感したのでした。

進学前の迷い
私は協力隊として、某アフリカの国で中学生にICTを教えていました。活動1年目は、生徒たちに高等教育まで進んでもらって自分で稼げるようになってほしいと、放課後のタイピング教室なども行いました。正に「教育=職業を得るために必要なもの」という考えを信じていたのです。
ただ徐々に、派遣国では日本と違ってパソコンは大人でさえ使える人が少なく、パソコンを使った仕事は都会に少ししかないと気づきました。そのため、赴任当初は「この国が経済発展をした時に稼げるようにコンピューターを操れるようになってほしい」と思っていたのに、だんだん「この国でコンピューターが普及するまで後10年以上かかるだろうな」とか「電気を膨大に利用し産業廃棄物を無限に作り出す高度IT社会に全ての国がなることが正解だと思っているわけではないんだよね・・・」と迷うようになりました。
私の活動する地域は農業で生計を立てている人々がほとんどで、家にパソコンがある生徒はほぼいませんでした。「IT知識は役に立つけど、この子たちが直近で必要とするのは別の知識かも。例えば基礎学力を身につけたり、より生産力があがる農業技術などを身につけたりしたほうが、良い生活に繋がるのかも」と思うようになったのでした。

まとめ
大学院で学んでこれまでの迷いがより整理されました。まず協力隊時代にそれまで全面的に信じていた「教育は基本的人権」であり「教育によって稼げる人材を育成する必要がある」という考えに疑問が生じたのでした。そして大学院で、基本的人権の考えは西欧に根差していること、そして人間資本の強調は「『近代化』の教化」に繋がっていることに改めて気づいたのでした。何を信じるかは違って良いと思うのですが、私の場合はそれを認識していなかったことで矛盾が生じたのだと分かりました。
大学院の勉強で良かったことの一つは、自分が悩んでいたことについて、「あなたの考えにプラスして、こういう考え方があるよ」とより包括的な知識を教えてもらえることでした。それまでも分からないことがあるとその都度ネットや本で調べていました。でも大学院で学んで、自分では見つけるのが難しかった考えを知って頭が整理出来た時の「・・・なるほど!!」と腑に落ちる感じは格別でした。

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*1:人的資本(「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」より抜粋)
「職場訓練,学校教育によって新たに労働者個人に付加される能力をいう。教育という投資により,蓄積される知識や熟練を資本とみなす。」

https://kotobank.jp/word/人的資本-82271

開発へのCriticalな視点②

前回の記事に続いて、授業で紹介された近代社会をどう捉えているかの分類4つを紹介します。*1

1. ‘Everything is awesome!’
‘space singularly affirmed modernity’s shine, grounding humanity in the advancements in science and technology achieved within a linear notion of time, and a seamless notion of progress.’
…つまりは今の社会は「全部サイコー」みたいな現状全面肯定派です。

2. ‘Soft reformer’
‘one focusing on inclusion, mobilized through personal or institutional transformation.’
…現状を否定しないけど、もう少し個人的、組織的な変革が必要だよね、という派です。

3. ‘Radical reformer’
‘What distinguishes soft-reform from radical-reform spaces is a recognition of epistemological dominance (largely absent in the soft reform space)…The radical-reform space also allows for the recognition of how unequal relations of knowledge production result in severely uneven distribution of resources, labour, and symbolic value. Modernity’s violence is recognized as something systemic to be addressed by re-structuring social relations at multiple levels.’
…現在の体制自体を変えなければいけない、という改革派です。

4. ‘Beyond reform’
‘they recognize the limits of even the most radical transformations that do not disrupt the underlying modern system and its grammars and logics.’
…改革も意味がない、システム自体が崩壊している、という全否定派です。

 これについての統計は、生徒の過半数は2の’soft reformer’で、1の’everything is awesome’と答えた人は数パーセントでした。先生は「まあ現状に大満足だったら、わざわざ開発を修士課程で学ぼうとは思わないかもね」と言っていて、確かにと思ったりしました。私もこの時2の’soft reformer’を目指したいと思っていましたが、枠組み自体を大幅に変える必要がある場合はradical(根本的)な改革が必要な場合もあるとも今は考えています。

最初の授業でこの2つの議論と分類、そして開発や今の社会に対して様々な立場があると知れた事は私にとってものすごく良かったと感じています。 何故なら、これまで抱いてきた自分の迷いを整理できたからです。今まで周りにいた人の開発に対する考えは「ほぼ肯定」「ほぼ否定」「無関心」のどれかだったと感じていて、そのどれにも微妙に属さない私は「部分的には賛成するけど、欺瞞だと思う部分もある。開発援助を全面的には肯定していない私が関わっていいのだろうか?」と迷っていました。

だから分類分けにその立場の人がいて、「仲間がいたー!!」と思って嬉しかったです。結果として、良い面悪い面を認識し、一番大事な文脈に集中すれば良いという考えに至り、卒業後の進路を判断する基準が自分の中で明確になりました。授業開始早々、「大学院に来て良かったなあ」と思った覚えがあります。

*1:この記事では「近代社会」と意訳していますが、以下出典文献ではModernity(近代性)という表現をされています。この分類は正しくは’social cartography of General responses to modernity’s violence’と呼ばれ、近代性の進化し続けるというポジティブなイメージの裏にあるネガティブな面(近代性の名の下に押し付けられるsystematic violence)に対する解釈の4分類です。
出典’Mapping interpretations of decolonization in the context of higher education’, Andreotti, V., Stein, S., Ahenakew, C., Hunt, D. 編著 

開発へのCriticalな視点①

今回はcritical thinking(批判的思考)ってこんな風に考えるんだなあ、と印象的だった授業について書きます。
それは秋学期、大学院に入学して最初に受けた「理論」の授業でした。第一回目だったので、まず授業の大まかな流れを説明した後、先生は大学院で開発援助の欺瞞を指摘し批判的に分析した学生のほとんどが、国際機関などの開発援助業界に就職する矛盾について説明されました。

・・・ここで少し話を進めると、確かに学ぶにつれて迷いが生じたりしました。2回目以降の授業ではほぼ全ての開発援助団体の欠点を学びました。例えば、国連関連機関や政府機関に対しては「大きな組織で現場のニーズを知らない人間によって作成された政策が実行されている」という指摘や、そしてNGOに対しては「資金不足のため政府などの助成金に頼らざるを得ず、把握しているニーズとは違うプロジェクトを行なっている」という批判などがありました。
また、「そもそも『先進国』が『途上国』の政策に口を出す開発援助というスキーム自体が植民地主義を引きずった考えであり、間違っている」と唱える学者さんもいたりします。そんな記事を何か月も読んでいると、沢山の欠陥を抱える開発援助のスキームに自分が関わるは良いのかという疑問を抱いたりしました。

・・・このようなもやもやした気持ちを今後抱くであろう生徒のために、この第一回目の授業では修士取得後に何をしたいのかを考えるヒントとして2種の議論が紹介されましたので共有します。

まず1つ目は人類学者達の開発への介入に対する立場の分類です。私含め人類学者以外にも参考になる分類なのですが、以下4つに分けられています。*1

1. Rejectionist (拒絶者)
‘one that sees the anthropologist's intervention as elitist or paternalistic, as something that necessarily reinforces the status quo.’
開発に介入することを否定的にとらえる考え方ですね。


2. Monitorist (観察者)
‘who simply diagnoses and creates public awareness of the problems associated with development’
この立場は現状を分析して開発の課題を伝える、淡々と学者としての仕事をする感じでしょうか。


3. Activist (実践主義者)
‘who…is actively engaged in development work’
学者としての知見を積極的に現場で生かそうとする立場ですね。


4. Conditional reformer(条件付き改革者)
‘who recognizes that anthropologists can contribute to the solution of Third World problems, but who also recognizes that their work in development programs and institutions is inherently problematic’
半々の気持ちで、自分たち学者の介入が第三世界の課題に役立つと思いつつも、自分たちの介入自体に問題があることも認めている、悩める感じですね。

授業では約80人ほどの生徒達に対して自分がどの立場だと思うかをオンラインで統計が取られたのですが、過半数以上が4の「条件付き改革者」、その次に多かったのが3の「実践主義者」でした。私自身は自分が「条件付き改革者」になりたいのかなと思っていますが、同じ「開発」に興味を持っている人でも各々立場が全然違うことを知れたことは、その後の授業で他の生徒と話す上でとても良かったです。(例えば1の『拒絶者』の人と議論すると開発援助を全否定なので自分の意見に自信がなくなったりしたのですが、目指している方向が違うことを思い出して、どちらかが正しいではなく、違って当たり前だと思えたりしました。)

そしてこの授業で進学前の疑問が解消されました。それは、開発そしてそれに関わりの深い開発援助を大学院で高額な費用と貴重な時間を費やして学んで、それが「修士取得」と履歴書に書ける以外の何の役に立つのかな?知識や人的ネットワークは仕事や自力でも得られるのでは?というものでした。でもこの授業を通して、批評的思考を知り、先生や生徒と話し、自らの考えを深める、を行うには学校という場が最適だと実感することが出来たのでした。

それでは次の記事では、授業で紹介されたもう一つの分類、近代社会の捉え方について書きます。

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*1:この説明は以下の文献にあるGrilloさんの論文のまとめを抜粋しました
‘Anthropology and the Development Encounter: The Making and Marketing of Development Anthropology’, p.672, Arturo Escobar著

※上記文献で参照されているGrilloさんの文献は以下です
‘Applied Anthropology in the 1980s: Retrospect and Prospect’, Ralph Grillo and Alan Rew, 編著

良い援助とは何か例えてみた話

今回は良い援助とは何かについて考えたことを紹介します。援助で何が重要かを理解するために、援助を「ご飯」に例えて考えてみたのですが、自分にとっては腑に落ちる部分があったので紹介します。 

まず何故この変な例えを考えるに至ったかを説明しますと、一番の理由は援助の評価が千差万別で私が混乱していたからです。私は大学院で学んで、色々な意見を知りつつどれを自分が重要視するかを決めたいと考えていました。でも色々な考え方があって、どう判断すべきか分からず困っていたのでした。私の所属するコースはどちらかというと資本主義に反対する論調が多いのですが、きっと経済学関連のコースでは読む論文なども違うのではないかなと思っていました。

そこで、自分が援助よりもう少し詳しく知っている「ご飯」を当てはめてみたのでした。まず、食べる・作るは毎日しているので、どんなご飯が良いか、についてはどんな援助が良いかよりイメージしやすいです。また、援助の判断には価値観が深く関係しますが、頭で考えるだけだと分かりにくい。でもご飯は味・においなど五感を使って判断するので分かりやすく感じました。そこで以下のように例えてみました。 

・Aはご飯を食べる人=援助される人(開発途上国の住民)。 Aはお金がなく一日一食の生活でお腹がすいています。 
・Bはご飯を作る人=援助活動を実際する人(援助機関から途上国に派遣される専門家など)。 Bは自分の料理で人を幸せにしたいと考えています。
・Cはレストランを経営する人=援助に必要な資金や物品を提供する人(援助を調整する機関の管理部など)。 Cはお金は十分稼げたので、社会貢献もしたいと考えています。
・Dはその結果、A に提供されたご飯=援助されたもの。

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そして、Dという援助(ご飯)の評価に影響する要素を①~⑨まで考え付きました。

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特に3者の価値基準(①③⑥)、社会環境(②⑤⑦)は判断に大きく影響すると考えています。進学前の私は、特に大学院で以下3つを勉強したいと考えていました。 
①援助されるAの価値基準
⑧援助方法(どのような援助手法を用いるか等) 
⑨援助内容(教育なのか起業支援なのか等) 

ただ、授業を通して驚くことが多かったのが個人の価値基準(①③⑥)は、違うんだなあということです。同じく援助側にいる援助実践者Bと援助管理者Cですら合わせるのが難しいこともあります。また、通常のレストランであればAはお金を払って料理を食べるわけですが、援助の世界では援助されるAがお金を払う機会はあまりありません。だから評価が更に難しくなります。 
つまりこの例では食事の好みが違う人々が関わるので、何が良いご飯か(何が良い援助か)が違うのは当たり前だと分かりました。そして良いご飯といっても「美味しい」「健康に良い」「見て楽しい」と何を重視するかは依って違うとも思います。

例えば、経営者Cがある地域に住むAはお金がなくご飯が満足に食べられないと知り、「自分の好きなスパイスたっぷりカレーライスをご馳走してあげよう」と援助するとします。援助されたA は実は辛い物が苦手、でもご飯を買う余裕がなくて経済的には助かるので無理に食べるということがあったとして、この時に浮かぶ疑問点としては以下があります。

1) お腹は満たされたけど、苦手なもの食べてAの具合が悪くなった場合、Aにとってそのご飯(援助)は「良かった」のか? 
2) その後Aが今度はカレーライスではなく野菜スープとご飯を援助して欲しいといったときにCは援助を続けるか?(Cは自分の善意が拒否されたと怒るかもしれませんし、カレー専門店の経営をしていて、「貧しい人を救ったカレー」として宣伝したかったかもしれません。) 
3) 無料で提供されたご飯の内容に変更を要求したAは我儘なのか? 
4) 良かれと思って作ったカレーでAの具合を悪くなったと知ったB。その後Bは「自分はカレーが苦手だと言わなかったA」「Bの好みを確かめずにカレーを提供してしまった自分」「Aの意見を聞かずにカレーを作らせたC」の、どれに原因を見出せば良いのか? 

言葉遊びみたいですが、こう考えると被援助側と援助側の価値観の違いが分かりますし、ここに社会環境も影響します。極端な話ですがなじみのないカレーのスパイスの香りで隣の人から文句を言われると、自分が美味しいと思ったカレーでも次はいらないと思うかもしれません。 

この援助をご飯に例えて考えた結果、開発援助においてBの援助者を目指す私が「変えられる」のは基本的に自分の④知識、能力、⑧援助方法、⑨援助内容だと気づきました。また、「自分の」③価値基準も柔軟にすることで、Dの援助を良い効果のあるものにしていくことが私の重視することだとやっと分かりました。(もちろん人の料理の好みが状況や体調で変わるように、キッチンを使いやすく変えたら料理が美味しくなるように、個人や社会の価値基準が変わることはあると思います。)

この例から改めて、私は物事を「改善」したい場合、まずは自分の行動を変える考えが好きだと分かりました。それは自分から、相手を理解したり交渉したりすることだと考えています。反対に、私が一番嫌なのは自分と違う「価値観」や「規範」を悪いと決めて変えようとすることだとも感じました。そして変わらなかった相手を責めることも苦手です。
それはこの例で行くと「みんながカレーを食べるべきだし、カレーを美味しいと思わない人はおかしい」と主張するようなものだからです。「より良い世界に変えよう!」って言ったとき、誰にとって「良い」のかを具体的に考えないと、逆の影響があるかもしれないことを自覚する必要があると思っています。 

ちなみに前ページの例の改善案を考えたのですが、 
・Cがスパイス栽培会社をAの住む地域に設立、 
・そこで働いたAは給料で好きなご飯が買えるようになり、 
・料理人Bはその会社の食堂で美味しいスープ(スパイスありなし選択可)を作ったりしながら、Aに地元の料理の作り方を教えてもらって更に料理人としての腕を磨く・・・
というのが皆にとって利益があると思える、私が良いと思う援助の方法です。

ちなみに何でカレーが例えに出てきたかというと、これを考える前にシェアハウスでカレーを美味しく作れて幸せな気持ちになったのは良いものの、共同キッチンにニンニクとスパイスの匂いが充満したので焦って窓を全開にして喚起を試みたせいだと思います。 とりあえず匂いは緩和したしカレーは美味しかったですし、少し変わった例を考えた結果、自分が大学院で得たいものがクリアになり良かったです。

開発・社会開発の基礎を学べた本

今回は開発と社会開発の基礎を学べた本を3冊ご紹介します。

私は大学院で勉強をして改めて、自分の基礎知識不足を痛感しました。大学院での必須文献は中級レベルで、歴史的背景や関連情報について知らないと少ししか理解できなかったからです。そのためまずは日本語の入門書で基礎を学んだ後に再度大学院の文献を読んだところ、読む速度や理解の深さが驚くほど向上しました。
たくさん素晴らしい本があると思うのですが、私が調べた範囲で特に勉強になった3冊をご紹介します。内容が気になった方は、目次も是非ご覧下さいませ。

1.「開発」を包括的に学べた本

「国際開発論」斎藤文彦
内容:21世紀の国際社会の合意である「ミレニアム開発目標」の実現によって、いかに貧困を削減するか。近年、欧米で盛んな開発研究の成果をふまえつつ、著者の体験を交え、開発途上国の抱えるさまざまな問題とその解決策を総合的に考察する。(「BOOK」データベースより抜粋)

この本を読む前には私の中で基礎が整理できていないため、大学院の必須文献を読むと基本的な疑問がいちいち浮かんできました。例えば、「貧しさの定義の話になると、絶対的貧困とか人間開発指数とかいっぱい出てくるけど、最低限どれを知るべきなの!?」といった混乱や、新自由主義とか脱開発とか当たり前のように出てくるけど何のこと!?私の周りでそんなこと知ってる人ほとんどいないよ!?(逆ギレ)」といったもやもやです。その後、この本に載っている図解や分類を読んでやっと「なるほど!」と全体を理解することが出来ました。

・目次は以下からご覧になれます。
国際開発論|日本評論社
・第1章「国際開発論とは何か」が以下から試し読み出来ますhttps://www.world.ryukoku.ac.jp/~fumis96/firstchapid.pdf

 2.社会学から見た「開発」について学べた本

「開発援助の社会学」佐藤 寛 著
内容:20世紀に人類史上初めて登場した「開発援助」という現象は、価値観を異にするアクター間の相互行為である。援助をはさんで向かい合う「援助者=我々」と「被援助者=彼ら」の間に生起する事象の考察を通して、関与の学としての「開発援助の社会学」を模索する。(「BOOK」データベースより抜粋)

 この本からは、開発の基礎と共にそれを社会学でどう捉えるのかを学ぶことが出来ました。前半は理論、後半は事例が紹介されています。私はこれを協力隊で活動をしている時に人から勧められて読んだのですが、自分が何となく疑問に思っていたり悩んでいたりしたことが、理論と実践に裏付けされた・明確な・分かりやすい言葉で説明されていて本当に感動しました。この本から得た様々な気づきが、私のその後の後半の質を上げ精神的にも支えてくれたと思っています。

・目次は以下からご覧になれます
開発援助の社会学 - ジェトロ・アジア経済研究所

3.社会開発について学べた本

「テキスト 社会開発」佐藤 寛、アジア経済研究所開発スクール 編
内容紹介:貧困削減の手法として、近年注目を浴びる社会開発。その狙い、手法、課題を、具体例に則しつつ現場経験豊かな執筆陣が説く。(「日本評論社」ホームページより抜粋)

それまで何となくしか理解していなかった社会開発について、基礎から分野別の開発課題までコンパクトに分かりやすくまとまっています。この本を読んで「開発」と「社会開発」の共通点・異なる点を理解することが出来ました。

・目次は以下からご覧になれます。
テキスト:社会開発—貧困削減への新たな道筋— - ジェトロ・アジア経済研究所

上記3冊は、一度読んで概要を理解して、授業や課題で関連する話題が出たら読み直す、という形で参照していました。その他には、各モジュールの先生が推薦文献として挙げられていた入門書的な本もとても役立ちました。
また、余談ですが、先輩から受けたものすごくためになったアドバイスが、大学院の課題文献で日本語の翻訳版があれば、それを読む!というものでした。
私は事前に同じコースを修了した人に過去のハンドブック(必須・推奨文献がたくさん掲載しています)を共有してもらえたので、日本で手に入る書籍は事前に読んで大事な箇所はスキャンしたり、タイピングしてまとめたりしました。なぜかというと本によっては電子書籍がなく、国外に出ると手に入れるのに郵送費がかかってしまうからです。英語文献をたくさん読み慣れることは大切なのですが、母語(日本語)で理解すると英語の文献も早く理解出来たので、使い分けが大切だと感じました。

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「社会開発」の定義

今回は「社会開発」とは何かについて書きます。
友達に「『社会開発』って何?『開発』と違うの?」とよく聞かれたのですが、学ぶ前は私もよくわかっていませんでした。今はざっくりした解釈として「開発って経済的な発展のことだけじゃないよね!社会的なことも大事よね!」というのが社会開発の考えと理解しています。

私の解釈はさておき、インターネットで調べると以下定義があります。
社会開発とは「経済開発の進展に伴う国民生活への有害な影響を除去または緩和するために、保健衛生・住宅・雇用・教育・社会保障などの公共的サービスの増進を図ること。」*1

また「テキスト 社会開発」という本に載っていた説明も以下ご紹介します。*2そこでは「社会開発を一義的に定義することは困難」だとしながらも、社会開発に含まれる要素5つ、誤解6つが載っていました。
社会開発に含まれる要素は「経済開発ではない開発」、「個人よりも社会全体を対象とする」、「潜在能力の発揮を目指す」、「当事者の主体性」、「外部者による意図的な働きかけ」の5つです。そしてこれを以下のようにまとめられています。

社会開発が話題になる場合には「①経済的・量的な成長とは異なる基準で社会の発展を捉えようとする視点、②社会の成員を取り巻く社会環境に働きかけることを重視する点、③個々人の潜在能力の発現を目指す視点、④当事者の主体性を重視し、変化の結果のみならず過程(プロセス)を重視する点⑤外部者の働きかけのありかたを重視する点、のいずれかの要素(場合によっては複数の要素)が含まれており、こうした要素が社会開発の中心的な概念を構成していると考えられるのである」

また社会開発をめぐる誤解6つを挙げられる中で「誤解1:社会開発とは社会セクターの開発のみを指す」や「誤解4:経済成長の否定の上に社会開発が登場した」は私も抱いていた誤解なのでとても興味深く読みました。

誤解1の説明として、一見インフラ建設は社会開発とは無関係に思えますが、「多くのインフラプロジェクトにも必ず社会開発的な側面が含まれうるのであり、社会開発とは開発の全てのセクターに関する問題」と書かれています。また、誤解4の説明として「批判されているのは経済成長『のみ』に開発努力を注入し、分配の問題を顧みない事である」とあります。

大学院の社会開発コースの「概論」の授業で学ぶ内容も、教育・マイクロファイナンス・気候変動・・・と幅広いテーマを扱っていました。ただやはり社会的文脈をより重視し、既存の開発援助の中で使われる量的な基準を批評的に分析する、という点は共通していたように思います。Social Capital(社会関係資本)という言葉も頻繁に使われます。これは「社会・地域における人々の信頼関係や結びつきを表す概念」*3なのですが、よく出てくるのでつい日常生活でもたくさん友達がいる人に対して「あの人のsocial capital半端ないわー」と使ってしまうほどでした。

社会学」との関係は?
私が社会開発に興味をもったきっかけが「開発援助の社会学」という本だったため、「社会開発」と社会学の関係性について疑問に思っていたのですが、ある本で「開発の中で社会学の知見が一番生かせるのが社会開発」という文章をみて納得しました。
また「名古屋大学大学院国際開発研究科」*4のホームページには「社会開発」の説明に以下一文が含まれています。

「社会開発分野で扱う具体的な研究課題には、ジェンダー、教育、保健・医療、貧困、参加型開発、紛争などがあります。こうした課題を研究するのは、社会学者でなければいけないというわけではありません。実際、多くの経済学者や政治学者が、社会開発分野の研究課題に取り組んでいます。」

これを読んで「良かったー社会学を知らなくても大丈夫なのね」と安心していたのですが、社会開発コースの授業で説明では社会学の基本用語も多く出ていたので、知識のない私はいちいち検索する必要がありました。調べるのは大変でしたが知ってみるととても面白く、自分の関心に合った内容でした。

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*1:大辞林 第三版)

*2:「テキスト社会開発」(佐藤寛、アジア経済研究所開発スクール編)

*3:社会関係資本の定義
社会・地域における人々の信頼関係や結びつきを表す概念。抽象的な概念で、定義もさまざまだが、ソーシャルキャピタルが蓄積された社会では、相互の信頼や協力が得られるため、他人への警戒が少なく、治安・経済・教育・健康・幸福感などに良い影響があり、社会の効率性が高まるとされる。「デジタル大辞泉

*4:名古屋大学大学院国際開発研究科」

社会開発 | 国際協力専攻 DICOS

人権についての考え方②(子どもの権利について)

前回の記事に書いた人権の議論に続いて、2つ目の議論である子どもの権利について書きます。

世界人権宣言の考えを子どもに当てはめたものが1989年の国連総会で採択された’Convention on the Rights of the Child’(UNHCR)、「子どもの権利に関する条約」です。子どもの権利について特になるほどーと思ったのは以下の3点です。

1.子どもの権利は、主に3つのP、Provision(供与)、Protection(保護)、そしてParticipation(参加)でグループ分けされる。
3つのPは、成長に必要な食べ物などを供与(Provision)され、虐待などから保護(Protection)され、自分に関する決定に参加(Participation)する権利です。(これにPreventionを入れて4つのPとすることもあるようです。)そして参加する権利は特に議論の的になります。なぜなら子どもが「参加」するにあたってどの程度その子たちの意見を取り入れるべきか判断が難しいからです。
例えば、義務教育はUNCRCの28条に定められており、子どもはそれを拒否出来ません。でも「義務教育ではなく違うことがしたい(例:カリキュラムにない科目を勉強したい)」という子どもの意見もあると思います。また、このUNCRCの特徴は子どもに関する限り「最善の利益(the best interest)」を第一に考えることが重要視されることです。*1

2.子どもの参加する権利に関する議論の争点は、子どもの’Competencies’(能力)がどの程度あると認めるかである。
能力といっても身体的、知的、社会的な能力と様々考えられますが、大人と同じ能力があると考えるか、まだ成長途中であるため大人よりは未熟であると考えるかの主に2つの捉え方があります。この捉え方について、David Arehatdは’Child liberalists’(子どもに権限を与えたい大人)と、’Child care takers’(子供を守りたい大人)に分けました。ただ能力については個人差もありますし、大人と同じ権利を与えることで逆に子供の負担が増えるのではという考えもあります。個人的には、状況や人に拠ると思います。

3.普遍主義のUNHCRと異なる、アフリカ諸国版の子どもの権利もある
文化相対主義の考えの一つとして、アフリカ諸国の文化を反映した’The African Charter on the Rights and Welfare of the Child’が作成され、1990年にアフリカ統一機構 (OAU) で採択されたそうです。*2 ちなみにOAUは今はアフリカ連合という名前になっています。

アフリカ憲章とUNCRCの大きな違いは、子どもの「責任」について書いていることです。例えば13条では子どもの責任について、’ (a) to work for the cohesion of the family, to respect his parents, superiors and elders at all times and to assist them in case of need;’ということも書いてあり、権利とともに家族への責任にも焦点が当てられています。一方、UNCRCは親の子どもへの責任は書いてありますが、子どもの責任についての記述はありません。

これで思い出したのが、協力隊時代に自分の考えと現地の考えに違いを感じたことです。私は子どもの教育を受ける権利しか頭になかったのですが、子どもが学校に行かずに家の手伝いをするという状況がみられるのは経済的な原因や教育の価値が理解されていないことに加え、この集団の責任という文化の考えに拠っていたのだなと思います

また、経済的に余裕がない家庭出身の生徒が、色々苦労してやっと受給できた奨学金で高校に入学した時のことも思い出しました。「奨学金の使い道」について聞かれたときに彼女が「親に一部あげた」と言ったので当時の私は衝撃を受けました。個人的には彼女になるべくお金の心配がない学校生活を送ってほしかったので進学するために全部使って欲しいと思ったのですが、このアフリカ憲章の内容を考えると、彼女をとりまく社会的文脈では当然とされる行為だったのかなと気づきました。

私は子どもを保護しなければという気持ちが強く、UNCRCの考えの大部分に賛成していますが、そうでない考えも理解する必要があると今は感じています。

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人権についての考え方①(普遍主義と文化相対主義)

今回は春に受講した「子ども」についての授業で学んだ、人権について紹介します。

この学びが印象的だったのは私が社会課題を解決すべきと憤る時、「なんてひどい!これは人権を侵害しているのでは!?」と考える傾向にあったからです。でもじゃあ人権って何?と問われれば「国連が決めたもので、皆に権利があって、えっと・・」と曖昧だったのでした。

特に「権利」の考え方の文化的な違い、そして「子どもの権利」に関する議論の2つについて書きます。ここで書くことは授業で使ったテキスト*1 を参照しています。

まず、権利の考え方についてです。授業で人権に対する考え方として、まず国連が掲げる人権の概念である’Universalism’ (普遍主義)について説明されました。ただそれはヨーロッパの数国の価値が強く反映されており、この普遍主義の考え方に反論して文化を尊重する’Relativism’(文化相対主義)があると知りました。

特になるほどーと思ったのは以下2点です。
1.「人権」の考え方の変遷
個人が等しく同じ権利を持つという考えは約200年前にフランス、アメリカの革命で初めて掲げられていますが、この時は権利の対象として女性、子ども、奴隷は想定されていませんでした。でも第2次世界大戦後の1948年に「世界人権宣言(Universal Declaration of Human Rights)」を「すべての人民にとって達成すべき共通の基準」として国連で採択されました。*2 その権利は’inherent(生まれながらに有し)’かつ‘inalienable(譲渡され得ない)’というのが特徴で、国籍、性別などに関わらず全ての人の人権を謳っています。

2.普遍主義的な考えに反する文化相対主義的な考え
世界人権宣言の考えは西洋(ヨーロッパの数国とアメリカ)の価値観に根差しているため、自分たちの文化に合わないという考えもあります。特にすべての個人が独立した存在であるという考えは、人を個人というよりも集団の一員として考える国の文化とは異なります。

日本も例に出ていて、人類学者のGoodmanは日本に「権利」という概念とともに「個人」という考えが紹介されたため、現在でも日本では個人主義的な考えが時に「我儘」ととらえられることがある、と述べています。そして儒教の影響が強い国では、個人よりも集団が強調される傾向にあることも指摘されていました。また。普遍主義的な権利は一般化しすぎており、各国の国内法では内容をより詳細に決めなければならないという意見もあるようです。

これを学んで思い出したのが、秋学期の授業で教育について議論した時のことです。私は「全ての子どもには教育を受ける普遍的な権利がある」と発言したのですが、担当の人類学者の先生が「そうだね。でもどんな教育が良いのか、ということを考える必要があるし、押しつけにならないよう配慮が必要だね。」と軽くたしなめるように言ったのです。

その時は「当然の話をしたのに同意を得られなかったのはなぜなんだろう」とうまく理解できなかったのですが、暗に指摘されたのは「教育とは自分も受けてきた、学校でカリキュラムにそって行われるヨーロッパの影響を受けた勉強形態である」そして「普遍な権利という考えは万国共通である」という私の思い込みだったことを、春の授業で自覚出来ました。

2つ目の子どもの権利ついては次のページで書きます。

*1:‘Understanding Childhood: an interdisciplinary approach’, 2003, ed Moodhead, M. and Montgomery, H. Chichester: John Wiley and Sons.
https://capitadiscovery.co.uk/mmu/items/1541052

*2:世界人権宣言(Universal Declaration of Human Rights)http://www.un.org/en/universal-declaration-human-rights/

DecolonizationとAlternatives(開発に代わるもの)について

今回はDecolonizationとAlternatives(開発に代わるもの)について書きます。授業ではDecolonizationと開発について話されることが多く、この議論から開発と近代について理解を深めることが出来ましたので紹介します。

 Decolonizationとは辞書*1によると「脱植民地化」や「植民地的支配からの解放」とあります。無知だった私はdecolonizationと聞いて、「あれ?でも植民地支配は終わってどの国も独立してるよね?」と思ってしまったのですが、開発(援助)を通じて今でも旧宗主国の支配・干渉は植民地時代と同じように続いている、それに抵抗をしなければと考える人々について知りました。

脱開発を推進する人々によると、主流の開発の考えはヨーロッパの数国が経験した近代化を元にしているため、経済成長への偏重や、ヨーロッパ中心主義への信仰が含まれています。そして開発の目標とされるmodernity(近代性)はcolonialityとセットになっていると考えているため、Alternatives to development(開発の代わりとなるもの)を模索します。この方々はAlternative development(既存のものとは違う開発)という考えにも反対しています。

Colonialityは耳慣れないことばで英和辞書にも該当する意味では載っていません。Maldonaldo-Torresさんという方は「植民地主義の結果として現れたが、植民地政権の厳しい限界をはるかに超えた文化、労働、相互主観的関係、知識生産を定義する長年にわたる権力のパターン」と定義しています。*2
これはColonialism(植民地主義)がまだ存在していたころは外国による直接的統治の押しつけが蔓延しており、戦後のDecolonization(非植民地化)によって宗主国が植民地から引き揚げその支配から逃れたかと思いきや、colonialityによる支配は続いている、という考えです。

では、開発の代わり’Alternatives’は何か?について授業で学んだものをご紹介します。*3

まずよく出てきたものはラテンアメリカン諸国のBuen Vivir(ブエンビビア)です。英語では’good living’と訳され、人間が自然と調和して生きる考え方のようです。近代性が人間から自然を切り離したのと対照的ですが、ボリビアエクアドルでこのBuen Vivirを基にした憲法が作られたことからこの考えが有名になりました。
また、授業では少ししか触れられていなかったので私も詳しくは知らないのですが、メキシコではZapatistasという社会運動が、アフリカでは`Ubuntu`という考えが、開発に代わる考えとされているようです。まだこのAlternativesがどう展開するかは長期間の試行錯誤が必要だと思いますが、開発援助を「近代性の押しつけ」と考える人々がいると認識することは、重要だと感じました。

脱開発の考えは私には過激と感じる部分もあります。ただ、近代性に部分的に賛成しながらも、違う形の生活を模索した方が良いと思うため、この考えがとても響くのかもしれません。

また自分を振り返ってみると、開発援助を知るにしたがって「近代」の負の部分を自覚したような気がしています。例えば、協力隊の2年間が終わった後、物欲が以前ほど湧かなくなりました。派遣国の田舎で少ない持ち物を使って、限りある井戸の水、それほど選択肢のない食料を食べて暮らす中、少し不便だけれど十分幸せだと気付きました。ネットも繋がりにくかったので情報も入ってこず、人と比べて落ち込むことも少なくなったので、いかにこれまで自分が情報に振り回されていたのかも気づきました。逆にメディアなどを通じて消費活動=幸せという考えを刷り込まれ、追い立てられていたのかもしれないと考えました。

もちろん、近代化して物質的に豊かになった結果、良いことがたくさんあったと思います。生きていくのに精いっぱいだった祖父母の話を聞くと、その時代に比べ自分がいかに恵まれているか感じることもあります。でも近代化の負の部分を明確に気づかせてくれた協力隊の経験やその体験を整理できた大学院での学びは、とても貴重でした。 

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<その他参考>

ご参考にPost-development(脱開発)と西洋の近代性を全て否定するAnti-development (反開発)の考えの違いの表を紹介します。出典は上記3と同じ書籍(‘Introduction to international development~’)です

Anti-development

Post-development

Rejection of Western modernity

Some elements of modernity can be useful; hybridization of modernity and tradition

Return to subsistence agriculture

Different (also Western) lifestyles possible; no universal blueprint

Valorization of cultural traditions

Cultural traditions not necessarily superior to the West

Culture as static

Culture as dynamics; constructivist view of culture

Sources: Hoogvelt(2001); Ziai(2004)

*1:新英和大辞典、ジーニアス英和大辞典

*2:Colonialityの定義
‘Long-standing patterns of power that emerged as a result of colonialism, but that define culture, labour, intersubjective relations, and knowledge production well beyond the strict limits of colonial administrations.’ (“ON THE COLONIALITY OF BEING”, Maldonaldo-Torres 2007)より

*3:Buen VivirなどのAlternative についての出典
‘Introduction to international development : approaches, actors, and issues’ third edition, ed. by Paul A. Haslam; Jessica Schafer; Pierre Beaudet,

Introduction to International Development: Approaches, Actors, and Issues (3rd Revised edition) | Oxford University Press

「貧困」の定義と測り方②「貧困をめぐる議論の側面」

前回の記事で紹介した「代表的な貧困指標」は定量的なものが多い感じがしますが、もう一つ「貧困を巡る議論の側面」9つを紹介します。これは大学院の「理論」の授業でおすすめされていた本*1 に載っていました。

◆貧困をめぐる議論の側面

これはMaxwellさんという方の論文*2 をまとめたものです。

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 9つもあると頭が混乱してしまうのですが、1つ1つはなるほど、という感じです。
例えばある授業では4つ目の項目(「瞬間」か「期間」か)に焦点をあてた論文を読みました。その論文では、5年以上貧困状態にいる人々のグループを「慢性的貧困」 (chronic poverty)として他のグループ(調査時に貧困だった人々)と分ける意義を、その慢性的貧困は代々引き継がれている可能性が高く他のグループと異なる解決策が必要だから、と説明されていました。
そしてそれは5項目目の「実際の貧困」と「潜在的貧困」にも繋がり、貧困の原因を代々引き継いでいる人々(例えば自分の所有する土地がない、遺伝性の病気のため家庭内の健康な稼ぎ手が少ないなど)は天災や事故などの有事への耐性が弱く、他のグループよりもより貧困状態で苦しむ可能性が高い、ということも分かります。
大学院で様々な貧困の定義やその測り方を学び直すことで、開発援助に対する考え方がより整理されました。そして人々をある「援助対象者」や「貧困層」といったグループに分ける時、その前提となっている指標が適切かを吟味しないと、どの援助が適切かも正しく分からないと痛感しました。

*1:‘Poverty and Development: Into the 21st Century‘, Allen, Tim and Thomas, Alan, eds
Poverty and development into the 21st century - LSE Research Online 

*2:‘The Meaning and Measurement of Poverty’, Simon Maxwell.
https://www.odi.org/sites/odi.org.uk/files/odi-assets/publications-opinion-files/3095.pdf 

「貧困」の定義と測り方①「代表的な貧困指標」

今回は貧困や指標の定義を一部ご紹介します。

というのも、大学院で良く使われている定義を学び直して、今まで疑問だった「開発援助でどうやったら貧困をなくせるか」「どの貧困指標が良いのか」について答えが分かったからです。その答えは「定義に依る」。・・・つまりは、何を「開発」そして「貧困」とみなすかで使う指標は違う、ということでした。単純なのですがとても頭が整理されたので共有します。

まずなぜ私にとってこの学びが重要だったかの説明として、個人的な進学前の考えや進学後の気づきについて書きます。私が開発援助に興味を持ち始めた大学生の頃は、「貧困削減」が開発の目標であると考えていました。ただその後、事例を知ったり協力隊としていわゆる開発途上国で生活をしたりして、援助が貧困を悪化させる可能性や自分の貧困の定義が経済的な側面に偏っていることに気づきました。

そして大学院の授業で1949年のトルーマン大統領の就任演説で「開発途上国の低開発は解決すべき」と宣言したことが「開発」の概念に大きな影響を与えたと学んで、この宣言が暗に肯定している「近代化」の良さを私も信じていたのだと気づきました。また、1950年代に経済発展を目的として始まった開発援助が、その後状況に応じて概念も測り方も変わり続けていることも知りました。そしてどの指標を重視するかで、自分や他の人(又は組織)の信じる価値観を分かるようになったのでした。

それでは特に頭の整理に役に立ったまとめを2つ共有します。

1つめは「国際協力用語集 第4版」*1 に掲載されていたのですが、貧困指標の代表的な手法として以下5つが掲載されていました。

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この代表的な指標のまとめは、文献に色々な指標が出てきて頭が混乱したときに見直したりしていました。次のページでもう一つ役立ったまとめを紹介します。

*1:『国際協力用語集』、佐藤 寛 (監修), 国際開発学会 (編集)
国際協力用語集【第4版】 - 国際開発ジャーナル社 International Development Journal