イギリス留学 ざっくり日記

大学院で社会開発を学んだ話

「知るのが怖い」の、後

今回は「開発援助で扱う課題について知るのが怖い」をいう感情の変化について書きます。この感情との向き合い方が、大学院とのコースメイトとの会話で少し変わったからです。

進学前の気持ち
国連が世界規模の目標として掲げるSDGs(持続可能な開発目標)でさえ17もあるように、世界中に様々な課題があります。詳しく調べていくと、極度の貧困、人権侵害、紛争、そしてそれらに起因する人々の苦しみ、惨たらしい生活、死・・・など信じられない話が絶え間なく出てきて、世界中の最悪の事例が集められているのでは本当に目を背けたくなります。

現状を知ることが大切なので、記事を読んだり話を聞いたりするようにしていたのですが、時にその事例の過酷さに何日も落ち込んでしまうことがありました。援助に関わった人の中には「その経験をした人はもっとつらいんだから、知るだけでつらいとか思ったらだめだよ」とたしなめる人もいて、反省しつつも「でも、つらいな。私みたいな気が弱い人はあんまり関わらない方が良い業界なのかもな」と思っていたのでした。そして大学院では理論的な話が多いので、あまりそういう感傷的な話をしないようにしていました。

コースメイトとの会話1
そんなある日、自由参加のドキュメンタリー映画のチラシを見ていたら顔見知りの生徒が「君も見に行くの?僕もその映画に興味があるから、会場で会うかもね」と話しかけてくれました。でも私はすぐに返事が出来ませんでした。

何故ならその映画は出身国を逃れ難民申請をした国の収容所で暮らす人々を映しており、その現状の酷さを訴えるものだったので、「2時間もあるし精神的なダメージが大きそうだな」と迷っていたからです。一瞬の沈黙をフォローしようと、つい「見たいんだけど、見るのが怖いんだ。こんなこというと恥ずかしいんだけど、こういうドキュメンタリーを見ると数日落ち込んだりするから・・・」と本音を言ってしまいました。

するとその人は優しく「わかるよ。僕も他の授業でドキュメンタリーを見るんだけど、たまに眠れなくなったりするから」と言ってくれて、何だか受け止めてもらえてものすごくほっとしました。最終的にはその映画を見に行って、内容は過酷なものでしたが現状が深く理解出来たので、その後関連したニュースをより身近に考えるようになりました。

コースメイトとの会話2
授業でも同じ経験をしました。子どもに関する授業で、ある週は「虐待」がテーマでした。その前の週に先生が初めて「来週のテーマは出席をとらないようにします。来るのがつらい人は来なくて良いですよ」と言いました。そしてその授業の日には欠かさず授業に参加する、真面目で特に優しいコースメイトが来ませんでした。他のコースメイトに「テーマがつらいから、次の授業は行かない」と言っていたそうです。

そのテーマでの必須文献は児童虐待、女子と性労働との繋がりなどについてで、事前に読んでものすごく暗い気持ちになりましたが、授業で先生が一つの見方に偏らないように慎重に言葉を選び、理性的に生徒の発言に答えているのが分かりました。ソーシャルワーカーとしても働かれている人だったので、子どもから虐待を打ち明けられたらどう対応すべきかなど具体的なことも話してくれました。

授業後に仲の良い子がポツリと「今日は特につらかった」と言ったので、「そうだね。先生は冷静に対応してすごいよね。仕事だから当たり前なんだろうけど・・・」と答えると、「・・・私は先生みたいに直接子どもと接する仕事は出来ないかも。」と彼女は悲しそうに言いました。「私も。冷静に対応出来ないと思う。」と答えながら、こんな風に「つらいね」って言い合える人がいると救われるな・・・としみじみ感じました。

なぜなら数年前に子どもの性的虐待を題材にした映画を一人で見に行って、その後何週間もそのことを思い出して落ち込んでいたからです。そういう映画を一緒に見に行く友達もいなかったし、内容を話すとその人も悲しい気持ちにさせてしまうと考え他の人にも話せなかったのでした。

知らないことへの向き合い方について
・・・誤解をされると悲しいので補足しますと、もちろん一番苦しいのは問題の渦中にいたり被害に遭われたりした人です。それなのに知るのがこわい、というのは失礼に感じられるかもしれないし、「問題解決に向けて行動してるの?」と聞かれても時々支援団体に少額の寄付するくらいしか出来ていません。

でも、知らないことはもっと怖いから、そして他人事ではないから、気になった社会課題については国内外問わず調べたり話を聞いたりするようにしています。なぜならその「課題」は、場所や状況が違えば自分や自分の大切な人が経験する可能性があるからです。その時どうすべきか事例は教えてくれますし、解決に向けて微力でも自分の出来ることが知れます。また誰かの課題を無視しない人々が多くなれば、自分が困ったときもその人たちが助けてくれるかもしれません。

「開発援助」を「勉強」する意味
「開発援助」の課題について話をすると、「興味を持っていてえらいですね」「勉強家ですね」そして「私には難しくてちょっと・・・」と距離を置く方がいます。それはその人の自由なのですが、もったいないな、と思ったりします。何故なら知ることで自分に気づきがあったりして、自分のためになることが多いと感じるからです。

私は別に利他的な人ではないので、自分のために「勉強」(ある課題を知ろうとすることをこう呼ぶなら)しています。でも開発援助の課題という「遠くの国の話」を少し知って、外国には一度も行ったことはないしそれほど興味もないという人が「自分にも関係があった」「知れて良かった」と話す姿を見ることがこれまで何度もありました。

そして自分を振り返ると、数年前に知ったある出来事が気づかないうちに今の行動に繋がったりすることもあります。だからお節介ながら、他の人にも知ってもらえたらと思っています。

まとめ
大学院では開発のマニアックな話を出来る人と会えたとともに、私よりもはるかに経験も知識がある人々でも「知るのが怖い」という感情を持っていることに、何だかほっとする瞬間が多くありました。もうあんな風に気さくに話せる人が身近にいなくてさみしい時もありますが、先生やコースメイトの、怖い気持ちを無視しないけれどそれを乗り越えて課題に向き合おうとする姿を思い出す度に、私も私なりに知り続ける努力をしようと勇気づけられるのでした。

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